昭和51年05月15日 朝の御理解
御理解 第90節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」
御道の取次者、いわゆる教師を志す者また志しておる者に、対するこれは御理解だろうと思います。匹夫の凡人からいわゆる道を開くのじゃからと。ここで私はまぁ神の願いというようなものを聞く気が致します。と言うのはたとえ一事は難しい事があっても、辛抱して行くうちには徳が受けられると言うところです。神様の願いというのは、この氏子徳を受けてくれよと言う事だと思うんですぎりぎり。これは信者教師を問わず、徳を受けることによって、人間の本当の意味においての幸福。
同時にならあの世この世を通してのもの。いわゆる子孫にも残しておけ、あの世にも持っていけるというほどしのもの。そういう物を受けてくれよというのが、神様の願いなんです。もうこりゃ神様のもうそれこそぎりぎりの願いです。ただおかげを頂いて病気が治ってくれ。お商売が繁盛するように、繁盛してくれという事じゃないです。ですから私は辛抱していくうちには、徳が受けられるというその辛抱していくうちということが、どう言う様な事かと言う事なんです。
例えばこの九十節の前の八十九節なども、これもやはり御道の教師を志す者への御理解と思うですね。此の方の道は傘一本で開く事が出来る。もういと簡単に言うておられます。此の方の道は傘一本で開かれる道。ところが実はその傘一本を頂くと言うまでが難しいのである。その傘一本を頂くまでが信心辛抱なのである。だからその勿論傘という事は、私はお徳と言う事だと思う。お徳と言う傘を持っておれば、第一安心のおかげを頂くのです。御徳を頂かなければ本当の安心は頂かれません。
御徳を頂かずして安心しとると言うのは、それはあまりもの安心です。それはまぁ安全感ぐらいなもんです。安全感と安心と言うのはだいぶん違います。バスに乗ってる。運転手さんがしゃんとして運転をしておるから、安心して乗っておるのだけれども、あれは安全感です。もしも運転手さんがね居眠りでもしたら、どういう事故を起こすか分からん。だから本当の安心じゃないです。安全感。だから信心を頂く事によって、辛抱していくうちに徳を受ける。その徳が私は傘だと思うのです。
傘一本持っておりゃ、どんなにもう今にも降りそうなお天気の時であっても、濡れんで済むと言う安心があります。持たんから空ばっかり眺めて、もう降りはせんじゃろうか、もう降りはせんじゃろうか、さぁ降るなら濡れんならんけん急がんならん、走らんならんと言うて慌てんならんのです。ですからここんところでいと簡単に、この方の道は傘一本で開く事が出来ると仰せられるのは、確かにそうです。そういうほんなら安心のおかげを頂く。どのような場合でも驚かんで済む。
どのような場合でも心豊かに生活が出来る。豊かな大きな心を頂く事が出来る。そういう心を頂いておるから、簡単に道が開けるのです。いと簡単に言うて傘一本で開ける道というのはそう言う事。だからその傘一本を頂くまでが、例えばこの九十節だと思うです。そこで皆さんがね、一生懸命こうして信心の稽古をなさっておられますから、その一本の傘を頂く事の為に、精進なさらなきゃいかんのです。難しい事があっても辛抱していくうちには徳が受けられる。
その辛抱していくその道すがらと言うものがです、ほんならどういうあり方で辛抱したら良いかと。勿論信心辛抱ですから普通で言う。ほら石にかじり付いてでもと。ぐうぐ言うて堪えるそれとは違う訳です。信心辛抱の事ですここは。信心辛抱させて頂くと言う事は実に有り難い事、楽しい事なんです実は。日々言うならば様々な意味においての体験を積んで行く事なのですから。有難いです楽しいです。そこでそんなら日々体験を積んで行く様な、体験を現していけるような信心辛抱とはどういう様な事かと。
昨日の御理解から頂きますと、あの林与一という御理解でしたですよね。二つの心与えるものは一つと書いてある。二つの心と林という字は二つの心、木を二つ書いてある。どういう事かと言うと、二つの心と言うのは、迷い心を捨てよと言う事なんです。一心になれと言う事なんです。そこに与えるものは一つ。神様が与えて下さろうとするものは一つです。それは御神徳です。神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよと言われる、そのおかげと言うのはその徳一つなんです。徳一つを受けてくれよなんです。
だから心が二つも三つもあったんじゃいかんと言うのです。一心と定めてくれよと。あちらに頼みこちらに頼みしちゃならん。あれに頼りこれに頼りと言った様な事ではです、おかげは受けられても、たった一つの与一ですね。与えるものは一つだと言われる、いわゆる御神徳を神様は与えて下さる事が出来ん。こちらも受ける事が出来ん。そこには神様も残念、こちらも残念という事になるでしょう。だからとにかく私はこの一時は難しい事があっても、辛抱していくうちには徳が受けられる。
その辛抱していくと言う事は、そういう一心を目指して信心の稽古をさせて頂く。そこにいわば迷わんで済む、いや迷わないという事は、こんなにも有り難い体験が生まれてくるんだという、体験を積みながらの日々なのであります。昨日熊本の山田先生が夫婦でお礼お願いに出てまいりました。と言うのはすぐ近所に植木という町がありますね熊本に。植木町の教会の教会長先生が、ご夫婦で布教をしておられたんですけれども、先生の方は具合が悪くて病院に入院して居られる。奥さんはもうお婆さんです。
それが去年はあのう今簡単に一二ヶ月御本部へ行って、教師の資格を頂けれるような道が開けておりますから。去年あちらへ本部へ行かれて、教師の資格と取ってこられてから、またすぐ帰ってから亡くなられたそうです。それでそのお爺さんの先生が一人、息子さんは何人もおられるけれども、みんなお道の教師にはならんと言うて、高校の先生とかなんとか、他に色々勤めに出ておられます。
それで山田先生が布教に出ると言うので、私高橋さんそれから繁雄さんやらと、あのそこの隣接教会になりますから、相談に参りました事がありますから、良く知ってますけれども。そりゃもう実に何十年の布教をしておられるそうですけれども、実にみすぼらしい教会でした。それがもうお爺さんとお婆さんで細々と、まぁおかげを受けておられたのが、そうしてお婆さんの先生の方も、教師の資格を取ってすぐ亡くなられ、お爺さんの先生の方は今病院に入院中である。
その先生の息子さんが、山田先生のところに見えてから、自分の教会の跡を継いでくれないかという話があった。まぁ山田先生も心が大変動いておる様で、まぁもう自分のところも傍ですし、自分のところの信者も一緒に連れて行ける訳ですから。けども大体言うたらば甘木関係の教会ですから、甘木、玉名、そして玉名の出社の何とかと言う、何とかと言う教会でした。あそこの前の教会のそこの出社なんです。
だから甘木関係には、皆さんもご承知のように、沢山なほんなら教職を持った先生方が沢山おられますから、あちらから養子貰われたら、私がどうだろうかとこう言う。それをどうして合楽に、合楽にじゃない、山田さんに直接言われるのかと。これが普通でならば私がその手続きも言うなら踏まんで、山田の親教会であるところの合楽教会長に相談して、そしてから山田に相談せじゃこてと。まぁ私がごねても良い訳なんです。けれども勿論、自分のここの手続きにはならない訳ですから。
甘木関係の手続きになる訳です、山田さんがあちらへ行けば。そんな事はこっちはもうさらさら問題じゃない訳です。山田さんあんたが行くその気であるならば、あのおかげ頂いても良いよと。私はその大体がこうだろうけれども、文句は言わんけれどもあなたがその教会に行って布教したり、そこで一修行させて貰おうと思うなら、させて貰っても良いよと。この人も私の弟子の中では、もう一番私の話を聞かない人なんです。お礼に出てきても、絶対御理解を頂かんです。
やっぱそれぞれの生き方があります。それでほんならここの先生方に、昨日もその話がちょっと出たんですけれども。もう私ぐらい親先生を頂いとる者は他におるまいち言うてから話すそうです。もう私は目を瞑ると、親先生がさっと出て来てくださる。お願いをするともう親先生がすぐ出てきて下さる。もう私ぐらい身近に親先生を頂いとる者はおるまいと言うて、この頃も西岡先生の部屋で盛んにその事をまぁ言うて帰ったと言うのですから。まぁそれは嘘とかじゃないけれども。
けれども合楽はどこまでも、もう合楽のいうなら信心と言われたら、もう御理解一本で立っとると言うても良い教会なんですここは。だから哀楽の御理解、それは富永先生やら、あのう末永先生あたりは「おかげの泉」でも六十冊ずつ持って行くですよ。あの言うなら小さい教会ですけれども。けれども山田先生はおかげの泉すら買わんです。一冊なっとん買うて行きよるねち言うたら、はぁ一冊ぐらい買うて行きよりなさるごたるち言うくらいです。もう全然見ろうとか読もうとか、聞こうとかと思うとらんです。
ただ目をつぶりゃ親先生が出てきて下さると、まぁ言うだけなんです。だからほんなら私が合楽風の話をしても通じない訳です彼には。そこでほんなら植木の教会にあんたが行けば、もう言うなら甘木関係の手続きになる。転籍をしなければならんのです。だからそれでも良いです。そこに人が助かっていく様な場が出来るんですから。必ず合楽の手続きを以ってせんでも良いと私は思うんですけれども。何とか話を聞く気になって、お取次させて頂くでも、本当に合楽で頂いておる御理解をね人に伝える。
昨日の御理解をいうなら研修の時に話した事でしたけれども。ほんならここであのここでほんならあの修行しております、私の言うなら弟子さん達が、ほんなら私が頂いておるところまで頂くと言う事は、なかなか出来んだろうと思うです。けれども私の話を聞いておるとね。ただ親先生の話を受け売りしただけじゃ、人は助からんけれども。こういう問題の時には、親先生はこう行かれるこう説かれると言うて説くならば、必ず私と同じおかげは受けられると私は言うんです。
それを如何にも自分の信心のようにして伝えたんでは、話は出来てもおかげは頂かんよと。こういう例えばもうそれこそのっぴきならない様な問題が起こった時でも、親先生はこういう風にお取次ぎをなさる。親先生はこういう風にそういう御理解をなさった。私もそれをかく頂いておると言う様な頂き方をしていくと、私が伝えたと同んなじ様なおかげになって現れてくると言うて、まぁ昨日話した事でしたけれどもね。そうして行く内に段々本当の言うならば、確信に満ちたお取次ぎが、段々出来て来る様にもなる。
体験に体験を積んでいくうちに、そういうおかげを受けられるようになって来る。そんな訳でしたから、私はその山田さんに、来てからだから御理解を説きませんし、聞く耳を持たないと言うかね。それで私は神様にその事をお願いさせて頂いておりましたら、どこの手続きを以って布教をさせて頂いても良いから、もうおかげを頂かんならんという事をお願いさせて頂きよりましたら、あの五つ六つの子供がね、その髪を無造作に藁しべで、ぽっと括っとるところを頂いたです。
はぁなるほどこれはまぁだこれからお育てを頂かなければ、髪は結うてはやれんなと私は思うたです。だからやはりもう分からんのじゃない。ひとつ分かるまでお育てを頂かなきゃならん。言うならばほんなら髪がふさふさと、どんな髪でも結い上げられる様に。髪という事は神に通ずる事である信心なんですね。これはだから皆さんの場合であっても同じなんです。おかげは別しかしならお徳を今日の辛抱して行く内にですね。いうならこの信心が段々お育てを頂いて伸びてこなかったとするならば。
一生信心しても只おかげの世界を知るだけで、徳の世界を知らんで済まなければならんのです。信心が伸びる髪が伸びる。そこにそんなら取次ぎをさせて貰う私が、そんなら丸髷なら丸髷にでも島田になら島田にでも、思う存分に結うて結い上げてあげる事が出来るのです。成程山田さんの場合には私が結い上げようと思うても、まぁだ髪そのものが伸びていないのだから。神が伸びる信心のお育てを先ずは頂かなければならないなと思うて、昨日から信心のお育てを頂く事を願わせて頂いておる様な訳であります。
そこでです一時は難しい事があっても、辛抱して行く内には徳が受けられる。その辛抱して行く内にです。神が伸びていかなければいけないという事であります。辛抱していくうちただ辛抱しとって、十年辛抱したけんおかげになると言った様なこっじゃないです。例えて言うならその植木の教会は、もう何十年の教会でしょうけれども、そら辛抱してあったでしょうけれども、お爺さん初めから、お爺さんお婆さんじゃなかですからね。二人ながら若い時から一生懸命修行もしてきて、結局お爺さんお婆さんになるまでもです、とうとう大した人も助からんな。
こら本当に失礼な言い方ですけれども、実にみすぼらしい教会で一生を終わってしまわれた。そしてその先生はもう病院から直接息子達の所に行く。お婆さんの先生は去年亡くなられた。だから後に山田先生を来てくれとこう言う訳なんです。実に哀れな話でしょうが。だからただ辛抱しとると言う、年限が経ちさえすれば良いという事では、ここは決してそうではない事が分かります。一時は難しい事があっても自然に開けると言う事はないて、それでは。信心辛抱でなからなければならない。
信心辛抱だからその間を例えて言うならば、昨日から聞いて頂いておる様に、迷い心を捨ててこの方一心と定めて、そして願っていく祈っていく生き方を、日々体験を積みながら、信心のお育てを頂かなければならんと言う事でございます。今日の信心の決め手と言うならばね。これにほんならもう一つ私が今から聞いて頂く事を、今日の本気で行じられる一つの、今日一日のあなた方の信心の支えになる、言うならば辛抱させて頂く間には、どういう辛抱の仕方をしなければならないかという事を聞いて頂きます。
それはね「神様のお心をお心としての今日一日でありたい」という事なんです。そういう辛抱でなからなければですね、身に徳を受けるという事はないんです。ほんなら神様の心を心としての辛抱と言う事は、どういう事かと言うと、天地ほど私共に無条件でご恩恵を垂れておられる方は神様はないと思います。神様はそれこそ無条件です。こげなおかげをやるけん、こうしてくれてんなんてんち言う事は更々ない。もう麗しの心と言うたら、そういう心なんです。無条件なんです。
だからその天地の親神様というお方は、そういう無条件のお方なのですから。私共もですひとつ無条件にならせて貰うという事は、真心にならせてもらう事なのです。真心とは無条件という事なんです。いうならば無条件の奉仕なんです。天地の親神様の心を心とするという事は、他にもあります。けども今日はそこんところに焦点を置いて聞いてもらう。天地の親神様が無条件のお方ですから、私共も今日一日は本気でひとつ、無条件にならせて頂こうと。
もう私だんおかげば頂こうち思うちから参りよるとでは条件です。だからここでお取次ぎを頂いて、お願いをしてはならんという事じゃないですよ。様々な難儀な問題は、お取次ぎを頂いてお願いをしなければならんけれどもです、いわゆる無条件という事はね、それから先は、もうあなたにお任せするという事です、お取次ぎを頂いたら。同時にまたこげんしてやると、あれがこげんしてくれるじゃろ。お供えばすりゃこげなおかげ頂くかも知れんといった様なものでは、さらさらいけない。
神様の心がいわゆる無条件のお方ですから、私共も本気で無条件になろうと精進する、その心と心が一つになるのです。そういう信心がです続けられながら、辛抱していくという生き方になるから必ずお徳を受けるのです。二心を迷い心を捨てる事に精進する。そして無条件の日々である。一生懸命仕事する。こがしこ給料ば貰うとるけんで働くと言う様な事ではないです。もう給料方働いときゃよか。こげんしてあげんすりゃ、こうなるからという様なものじゃなくて、ただ自分の頂いておる御用なら御用をです。
ただ神様の御用として無条件にですね、奉仕さす奉仕の精神です。奉仕の心です、神様の心と一つになるという事は、神の心を心とするという事は無条件なんです。私共がここへほんなら座らせて頂いて、様々なお取次ぎをさせて頂く。はぁこれがおかげ頂いたなら、あれがこげなお供えするかも知れん。んにゃまたお供えさせにゃ出来んという様な事で、もし私がここに座っておるとするならば、人も助からないでしょうし、私はそれでは十年座ってもお徳は受けないでしょう。
ほんなら、私はね自分の報酬などと言った様な事は、さらさら無条件でここへ座っておるから、私は必ずお徳を段々受けていくと思うし、また人も必ず助かると確信しております。神様の心にならせて頂くことに、いよいよ神の心を心としての、取次ぎ者としての精進を、出来ておるとは思いませんけれども、それに向って精進しておるということなのであります。神の心を心として。
どういう風にする事が、神の心を心としてだろうかと、みんな申しますけれども。今日は、無条件の奉仕という事を以って、今日一日皆さんが精進なさるなら、必ず体験が生まれるでしょう。それは有り難い体験が生まれることでしょう。ですから実を言うたら、日々が無条件での御用と言う事にならなければ、いわゆる御用精神です。無条件の御用という事にならなければ、こんなに馬鹿らしい話はないのです。
自分の我情我欲の為に奉仕すると言うなら、奉仕にはならないです。奉仕とは言うならば仕え奉るという事。神様の御用にお使い回しを頂く。口では言いよります、皆さんがね。今日も神様の御用お使い回し頂きますようにと。けれども条件がある証拠に、淋しかったり腹が立ったり、欲が出たりする訳です。だからひとつ今日はいよいよね、その無条件の言うならば今日一日でありたい。奉仕でありたい。
そういう信心がです、辛抱そういう信心を中身としての辛抱であって、辛抱していくうちには徳が受けられると言うおかげ。そこで初めて一本の傘が与えられる訳であります。だから、その傘を持っておるならば、もうどこへ行っても不自由はありません。あの世に行っても勿論の事です。その一本の傘を目指させて頂く信心。そこをその内容を言うならば、八十九節の
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